飢えと渇きの音楽《Introduction》

きっかけはあるミュージシャンとの会話だ。
その日私は渋谷のあるライブハウスにいた。あと数日で新年を迎えようかという日だったが、まだ本格的な寒さとはいえず、夜風に当たったくらいでは酔いは醒めなかった。妙に気持ち良く酔えた日で、ライブが良かったこともあって、気分は最高だった。

目当てのアーティストを見た後、その当人とほろ酔い気分で雑談していると、話題は彼が最近行ったツアーに及んだ。地方都市や海外へ遠征に行く機会の多い彼は、「地方と東京では、オーディエンスの音楽に対する熱量が違う」といった旨のことをふと零した。

確かに、東京は音楽的に恵まれた街だ。
星の数ほどあるライブハウスでは毎晩パフォーマンスが繰り広げられており、時に見たいライブが重なることすらある。
悪い面をいえば、パフォーマンス側もオーディエンス側も、お腹いっぱいなのだ。いきおい一回のライブに対する本気度も低くなる。現に「こいつら惰性でライブやってんだろうな」というアーティストをしばし見かける。

 

ご存知ない方のために日本のライブハウスのシステムについて書くと(知っている方は読み飛ばしていただいてOKです)、小〜中規模のライブハウスで行なわれるイベントは、ノルマ制で成り立っているものが多い。出演者が規定枚数分だけチケットを買い取ってステージに立つのだ。
身も蓋もない言い方をすれば、金さえ払えば演奏レベル如何に関わらず、どこかしらには出演できる。だから対バンイベント(30分程度の出演枠を割り当てられたアーティストが複数出演するイベントのこと)は博打打ちだ。たまに「たとえ無料でも腹が立つ。時間と交通費を返せ」と言いたくなるアーティストにあたる(笑)。玉石混合なところがライブの醍醐味の一つ…….ではあるが、よほど音楽に愛がなければ、趣味でミュージシャンごっこをしている連中に付き合ってられるほど大人は暇じゃない。

 

「望めば誰でも音楽ができて、いつでも聴くことができる」という日本に対して、ふと頭を過ぎったのは、ベネズエラの『エル・システマ』だ。
エル・システマは、「音楽による社会変革」を掲げる無償の音楽教育システムである。この文章を書いている少し前に永眠されたホセ・アントニオ・アブレウ氏が創始し、現在では60以上の国・地域で子どもたちが無償で音楽を学ぶ。簡単にいえば「学童保育・音楽版」といったところか。
ベネズエラは午前中で小学校が終わってしまうそうで、子どもたちは親の目が届かない時間、犯罪に巻き込まれる可能性が高くなる。下校中の小学生が誘拐の危険にさらされるというような散発的なものではない。南米の貧困社会では、犯罪がそのまま生活の糧になる。
つまり、放課後ふらふらしていると犯罪に巻き込まれてしまうから音楽で忙しくさせておこうーーということだが、このプログラムは目覚ましい効果を上げており、「音楽による社会変革」を現実に成し遂げているのだ。

百聞は一見にしかず。ぜひこの映像を見てほしい。
エル・システマが輩出した指揮者、グスターボ・ドゥダメルが、エル・システマの中でも優秀な青少年たちで構成されたシモン・ボリバル・ユース・オーケストラを指揮している。

 

 

私はこの演奏を見たとき、正直、「羨ましい」と思ってしまった。
もともとクラシックを学んでいたので、私もライブハウスで熱狂するのと同じテンションでクラシックを楽しみたいのだ。日本にはまずこんなオーディエンスはいない(書いていて気づいたが、カルチャーとオーディエンスもパフォーマンスに影響しているのだろうな)。

何がこれほどの演奏を彼らにさせるのだろう?

それは、音楽に対する「飢えと渇き」ではないのか。

 

常に犯罪と隣り合わせに生き、健全な未来の保障どころか、スイッチを押せば電気が点く保障も、蛇口を捻れば水が出る保障もない。
つい一月ほど前に相馬のエル・システマ・ジャパンに取材へ行ったのだが(それについてはまた外部メディアにて執筆予定)、現地の視察に出向いた関係者曰く、「複数の施設を見学する日程でも、昼ご飯を食べるためにわざわざホテルに戻る」のだそうだ。道中で食事を取ると危険だからだ。

そんな場所で、乾いた大地が水を吸収するように、子どもたちは音楽を吸収していくのではないか。

 

飽食な社会でただ消費される音楽  VS  文化的・経済的に未成熟な社会で、精神的飢餓を潤す音楽。

軍配は後者に上がるように思われる。

 

人類の歴史を通じて、音楽はさまざまな役割を果たしてきた。
最近、『戦争交響楽 音楽家たちの第二次世界大戦』(朝日新書/中川右介・著)という本を読んだが、ナチスドイツが人間の尊厳を蹂躙していく最中(さなか)、当時の音楽家たちが毅然として抵抗の意を示す姿が描かれている。

東西冷戦中の1987年、デヴィッド・ボウイは、ベルリンの壁の西側でライブを行なった。壁の反対側ーーつまり東側ーーにも数千人の聴衆が詰めかけたという。

そしてレナード・バーンスタインは、2年後の1989年、ベルリンの壁崩壊を祝してベートーヴェンの第九を指揮した。そのときのオーケストラは、東西ドイツ、米ソ、イギリスとフランスの楽団員で構成されていた。

音楽が大きな波紋を生んだ、こんな例は枚挙にいとまがない。

 

音楽は本来、社会に働きかける強い力を持っているはずだ。
が、音楽が「数ある娯楽の一つ」に過ぎなくなってしまった日本では、あってもなくてもいいような雑音が周囲を満たしており、右耳から左耳へすり抜けていく。
自ら消費財の立場に甘んじているんじゃないか。音楽をやっている当人たちが、単なる娯楽と捉えているんじゃないか。

 

日本のインディーズと国家的な予算もついたオーケストラを同列に語ることはもちろんできない。
が、クラシックの世界に限定したらしたで、今度はアカデミズムと権威主義が待ち受けている。食うに困る経験をしたことのない富裕層の音楽、くらいに世間では思われているんではなかろうか。
いずれにせよ、牙を抜かれていることには変わりない。

私は、音楽が社会を変える様(さま)を見たい。
音楽は何度も私を救ってくれた。きっと今まで何人もの人間の人生を変えてきた。もっと大きなうねりを描く様を見てみたい。

 

現代日本という社会に対して、音楽は何ができるのか。
すぐに結論を出せるものではないが、しばらくそんな視点から見つめていきたいと思う。

 

 

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