インディペンデント・スピリット

中学の半ばくらいから、ヒットチャートに好みの音楽が上がってこなくなった。音楽は大好きなのに、聴きたい音楽がない。
で、クラシックにいった。時間という試練を耐え抜いて古典化した音楽は、好き嫌いはあれどクオリティは担保されている。
同時期にジャズにも触れる機会はあったが、ライブで聴こうと思うとお酒がセットだから、学生にはちょっと縁遠かった。その点クラシックは、地元の音楽ホールに行けば海外の楽団を2000円くらいで聴くことができた。
中学生のとき、新聞で『マタイ受難曲』公演の広告を目にした母が、「滅多に演奏しない曲らしいよ」とチケットを買ってくれて、一人で聴きにいった。で、もちろん、多感な中学生の価値観を一回ぶっ壊して再構築するくらいの威力があった。全曲聴き通すには忍耐力を求められるが、音楽に関心があろうとなかろうと、マタイ受難曲の重厚な合唱を聴いて何も感じないという人はあまりいないと思う。
どこまでも荘厳なものに対する、純粋な魂の感動。それがクラシックという音楽に対する原初のイメージだ。

 

その後紆余曲折を経て、アメリカの大学に進学し、音楽を学ぶようになった。一流のオーケストラやオペラが20ドルの学生券で見放題という天国のような環境だった。
が、帰国して状況は一変する。
クラシックのコンサートが、高い……。
(すなわち、私はもう学生ではなかった。日本は学生券でも高いけどな)

 

音楽は生で聴くのが基本だった自分にとって、「ライブが高い」という状況は、ちょっと、というか大分、想定外だった。
で、どうしたかというと、ライブハウスへ行くようになった。音楽のジャンルより「生で聴ける」ことのほうが自分にとっては重要だったのだ。
そこから徐々にインディーズにハマっていった。
そもそもメジャーに聴きたい音楽がなくてクラシックにいったんだから、必然といえば必然だ。

 

ネットの普及によって、好みの音楽に出逢える良い時代になったと思う。
ミュージシャンが食えなくて大変だというのは重々承知しているけれど、リスナーにとっては断然今のほうが良い時代だ。今みんなが聴いてるのより絶対こっちのほうがいい、私はこっちが好き、という音楽がたくさんある。

 確かにわかりやすくはないし万人受けはしないかもしれないが、彼らの音楽が素晴らしいのはわかりきっている。というアーティストを当たり前のように聴いているうちに、ふと、「なんで自分が作るものに対しても同じ態度を貫けない?」と、まるで憑き物でも落ちたような感覚になった。
というのは、先の記事に書いた『Windy City Love Story』のコメント欄に、自分が好きな音楽に対して言っているようなコメントばかり並んでいたからだ。「良かった」という評価の上に、「万人受けはしなさそうだが」という枕詞がつく。笑
(名前も顔も知らない励ましのコメントをくれた人たちに、心からのありがとうを。)

 

音楽にせよ、物語にせよ、モノを作るのは大変だ。
安定した生活基盤がなければ、モノ作りなんて悠長なことはしていられない。
年を重ねれば重ねるほど無鉄砲なエネルギーは失われていき、気持ちだけではもうどうしようもなくなっていく。
それでもなんとか、生きている限りは書きつづけようという気持ちで、私は私でやっていく。

 

敬愛するミュージシャンたちが、生きている限り音楽をつづけられますように。

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